タシナリ師に聞く

とある小春日和の一日、小さなラジカセを持ってサレジオハウスにドン・タシナリを訪ねた。それとなくいろんな話を聞いてみたいと思ったからだ。周知のように、ドン・タシナリの日本語としての語彙はそれほどひろいとは言えないだろう。でも、なぜかその話し方には説得力がある。ドン・タシナリと語り合っていると知らず知らずの内にドン・チマッティの面影が濃厚になってくる。ドン・チマッティと起居を共にし、労苦を分かち合って実に三十年だという。おまけに管区長職もドン・チマッティからドン・タシナリが受けついだのだから。ともかくドン・タシナリに聞いてみた。
「あなたから見て、ドン・チマッティは一言でいうとどんな人でした?」ドン・タシナリは少しもためらわず、すぐ答えられた。「かわった人でしたね」と。「かわった人?」正直言って「アレッ」という感じもないわけではないが、ちっと考えてみると、ある意味で聖人?とかいう方々は「かわっている」のかも知れない。つまり「非凡」なのだろう。
「ドン・チマッティのウイークポイント、周囲の人々、特に会員たちからとやかく言われた点、批判された点がありましたか」と聞くと、この間に対してもすぐさま次の三つの点を上げた。①金銭感覚の欠如 ②周囲に対してやさしすぎる点 ③個性の強い会員たちへの指導力、統率力のもの足りなさ。
ドン・チマッティは、そんなある日、福岡におられたブルトン司教をたずねたことがあった。ほかでもない。お金のやりくり、財政手腕がすぐれていることで有名だった司教にその方面についての助言を求めるためであった。ニコニコしながらあたたかくドン・チマッティを迎えた司教は、先ず最初にドン・チマッティに言った。「始めに神様のやり方を聞かせてください」と。ドン・チマッティはトツトツと例の調子で正直に説明し始めた。「私の手許には、いつもお金はありません。借金やら支払いの必要やらが山ほどありますので、お金が入れば、それこそ左から右へとすぐ出て行ってしまいます。ですから、手許にはいつもお金は残りません。」司教は興味深そうに、さらにドン・チマッティにたずねるのでした。「でもそれじゃ、お困りになりませんか」と。ドン・チマッティは無邪気そのもの、でも、まじめに確信をもって言うのでした。「司教様、それまで導き、助けてくれている摂理がそれからあとも面倒を見てくれる義務があると思います。」司教は満面に笑みをたたえて、ポンと軽くドン・チマッティの肩をたたきながら、こう答えた。「そうですか。敬愛するドン・チマッティ。どうぞ今まで通りお続けください」と。これが最高の「助言」だったとか。
ドン・チマッティが教区長を辞めてすべてを後任者にバトンタッチした時も、ドン・タシナリが管区長職をドン・チマッティから引きついだ時も、銀行の通帳、その他には文字通り一銭の借金もなかったそうです。
「私は、一生懸命あたたかい家庭的精神を人々の中に、特に会員たちの間に植えつけたかった。でも、力不足でうまくいかなかった。」と帰天する何日か前に病床で洩らしたそうだ。でも、われわれはよく知っている。ドン・チマッティが切望した家族的精神はものの見事に、その時も、そして今日でも、サレジオ会の特長とも言ってよいほど会員の間に浸透し、開花しているのではないか。
ドン・タシナリの語るドン・チマッティのエピソードは、それこそあとからあとからとめどなく続く。私なりにいくつかをピックアップしてみたい。
多分、ヴィジタだったと思うが、ドン・チマッティが中津支部ドン・ボスコへ行かれた時のこと。宮崎からはSLの高千穂号しかなかった時代。とてつもなく朝早い時間に着いてしまった。ご存知の方も多いことだろうが、聖堂とメインの建物の間に蒼々とした芝生の中庭がある。まだ休んでいる会員や生徒たちを起こしては迷惑をかけるとの配慮からドン・チマッティはスータンのまま朝露のおりている芝生に、待ってきた風呂敷包みを枕にゴロリ。二時間半ほど仮眠しているところを起きてきた会員に見つけられたそうだ。あとから聞くところよると「芝生の上のゴロリ」は二度や三度ではなかったとか…。カメラに収めておきたかった気がする。
しばらく経ってから、ドン・チマッティのあとをついだタシナリ管区長がヴィジタに出かけることになった。早朝暗いうちに宮崎支部の玄関口をヌキ足サシ足で音を立てないように出かけようとしたドン・タシナリは、真っ暗な玄関先にロザリオを手にしたドン・チマッティが立っているのに気がついた。ドン・チマッティは小声で「キップ」と言ったドン・タシナリに手渡した。汽車に乗ろうとしてみると、「一等車(グリーン車)」のキップだったという。自分にきびしく、他人に寛大。言うにやさしく、行いがたいことではなかろうか。
ドン・タシナリが十四年ぶりでイタリアに帰国した時、本部トリノ・ヴァルドッコで次期管区長就任の内示を受けたそうである。自分には荷が重いと思ったのであろう。食事を終えて、聖体訪問へと中庭を横切っていく長上たちの何人かに、ドン・タシナリは声をかけてみた。ドン・ジジョッティをはじめ、どの目上も皆、まるで申し合わせたように口を揃えて「大丈夫、大丈夫、長上の言うようにすればよろしい。」と言うだけだった。ドン・タシナリは「ああ、もう長上たちはグルになっている」と悟った。ちょうどその頃、トリノでは本部の最高の長上のメンバーのひとりに日本からドン・チマッティを招聘しようという話がかなり進んでいた。この招きをすでに受けていた当のドン・チマッティは周囲の人々には事あるごとに「どっちでもかまわない」といかにもドン・チマッティらしい言い方をしていた。このような状況をふまえて、ドン・タシナリはドン・ジジョッティを訪れてこう言った。「ドン・チマッティを、ぜひ日本にください。彼なくして日本におけるサレジオ会の宣教はとうてい考えられません。父親のような慈愛を持ってドン・タシナリの願いに耳を傾けていたドン・ジジョッティは「私が、直接ドン・チマッティに手紙を書きます。」と約束してくれた。事実、約束通り長い長い手紙がトリノからドン・チマッティの手許に届いたのは、様々な事情で約束より相当おくれたとのこと。少々理解しにくいことだが、ドン・タシナリは、このドン・チマッティが日本の地に骨を埋め、文字通り日本の土になることを決断する「もと」になったこの長文の手紙については皆目見たことも聞いたこともないそうである。人知を越えた摂理のみ手の業とはいえ、「ドン・チマッティを日本に下さい、日本のサレジオ会の宝です。」ドン・タシナリのこの叫びも長上を動かし、摂理のみ手をゆすったように思える。
次の話も至極当然といえば当然だが、いろいろなプロセスをへて、とにかくドン・タシナリが新管区長に就任した。ドン・タシナリは、人間的に言って不安でもあったに違いないし、「なにかと相談に来ますのでよろしくご指導ください」とドン・チマッティにお願いしたそうである。事実、なんどかドン・チマッティの許に行って助言を求めたようだが、その都度、ドン・チマッティは次のひとことを繰り返すだけで助言らしい助言はなにひとつ言ってくれなかったという。「あなたは、ひとりで務めを果たせます。」その通り、管区長が新旧交代してからは、オベディエンツァの取り扱いをはじめとして、種々の面で全く違った手法がとられたとか。
あれだけ次から次へと様々な事業を発展し、計画し、実現していったドン・チマッティなのに会話の中では決して「io 私が」という第一人称単数を使ったためしがないという。「noi」みんなが、会員たちがよくやってくれる、頑張ってくれるという言い方が常だった。
かりにも、ドン・タシナリのインターヴェーに来たのだから彼自身についてもちょっと書き加えてみよう。
私的なことで恐縮だが、ドン・タシナリと私との出会いは、私が二十三歳のとき、つまり、まだ未信者の頃だった。田園調布教会の一日本人司祭といろいろ教理を勉強していたが、ナマイキだった私にはてこずったようで、受洗はまかりならんと言われてしまった。
ちょうどその頃、ボランティアで国分寺サレジオ学園を訪れた私は、初めてドン・タシナリと出会った。私の記憶では、当時ドン・タシナリの口ぐせは「いいでしょう」だった。
私が「受洗の希望」を話し出すとすぐさまドン・タシナリの「いいでしょう」の返事が返ってきた。そんなわけで、あっけなくそれから一ヵ月あとのクリスマスの夜、十人の仲間と共に受洗の恵みをいただいたわけである。
それから以後、ドン・タシナリとは家族ぐるみの親交が始まった。それがきっかけで逗子の私の実家には延べ七、八十人のサレジオ会員方がいろんな機会に来てくださった。
管区評議会をわざわざ逗子兄宅で開いてくださったこともあって、今だに感謝している。そんな折、会員に方々を実家の仏間にご案内したことがあるが、中に何人かの邦人でない会員の人が脱いだ靴を、日本式に外向きにそろえておいたり、仏間では聖堂と同じように静かにひざまづき、ゆっくりていねいに十字架のしるしをして祈ってくださった会員がいて、私の身内の者たちは深い感銘を受けたようだ。その一人がドン・タシナリだった。
ドン・タシナリが宮崎日向学院の校長だった頃、いろいろうるさく相談に行ったり、許可をもらいに行ったりしたが、いつも「いいでしょう」と言われるだけで、そのほかに言われたことを何も覚えていない。「いいでしょう。」これがいわゆる「Ottimismo sano 健全な楽観主義」なのか。私の場合、ドン・タシナリの「いいでしょう」で修練期に進み、「いいでしょう」で立願になり、いろいろあって「いいでしょう」で今日に至っている。
Br.川部 金四郎「Venite et Videte」一号より
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