タシナリ師に聞く

クロドヴェオ・タシナリ師
略 歴
1912年3月9日 誕生(イタリア・モデナ)
1929年9月14日 初誓願
1930年1月27日 来日
1933年8月7日 終生誓願
1936年11月8日 司祭叙階
1940-1943年 修練長
1944-1946年 神学院院長
1946-1949年 東京サレジオ学園園長
1949-1955年 サレジオ会管区長
1956-1958年 修練長
1959-1965年 日向学院中・高等学校校長
1966-1969年 育英高専校長
1969-1970年 中津修道院院長
1970-1980年 イタリア帰国
1980-1987年 別府教会SH院長、杵築教会主任
1987-1994年 別府教会協力司祭
1994-2012年 サレジオハウス
2012年1月27日 別府にて帰天
巻頭言
タシナリ神父の遺言
サレジオ会管区長 アルド・チプリアニ 神父
今から、皆さんに1月27日に天に召されたタシナリ神父についてお話いたします。タシナリ神父は来日した最初のグループの一員ではありませんでしたが、確かに私たち日本管区の柱の一人、モンシニョール・チマッティのいちばん愛弟子、師を最もよく理解した弟子でした。タシナリ神父が去り、私たちは日本管区86年の歴史の生き証人を失いました。
クロドヴェオ・タシナリ神父は一九一二年三月九日、男の子4人、女の子3人の7人兄弟の一人としてイタリアに生まれました。弟さんの一人はサレジオ会員、姉妹の一人は修道女になっています。
タシナリ神父の人生に大きな影響を与えたのは母親でした。深い信仰、祈り、大きな自己犠牲の人でした。ドン・ボスコのマンマ・マルゲリータ、ドン・チマッティのマンマ・ローザのように、ドン・タシナリのマンマ・マリアも、神のことを息子に教え、沈黙のうちに人々のために自分を与え尽くすことを考えました。
一九二五年の秋、クロドヴェオ少年13歳のとき、チマッティ神父がファエンツァからそう遠くない彼の学校を訪ねました。そのとき、二人が会話を交わしたかどうかはわかりませんがチマッティ神父は日本について生徒の前で様々なことを話しました。しかし、その日以来、クロドヴェオ少年の頭から日本宣教のことが離れなくなりました。こうして、一九二九年の初誓願のときには、日本派遣の呼びかけに応える用意ができていました。タシナリ神父は一九三〇年一月二七日に日本にやってきました。タシナリ神父が天に召された日と同日とは不思議な巡り合わせです。82年前のことでした。
1月30日、シモンチェリ神父と一緒にタシナリ神父の机を整理したところ、一九九四年十月二日付で書かれた手紙を見つけました。DESIDERATA(望み)と題された手紙は、自分が死んだときの希望を書きとめたものでした。
ここに皆さんにご紹介したいと思います。
- 神の限りないいつくしみに私の魂をゆだねます。私の体は兄弟なる火にゆだねます。いけにえ、償いとして、神が燃やし尽くしてくださいますように。
- 葬儀は、貧しい者として、追悼の賛辞などのいない簡素なものにしてほしい。ミサで信徒の導きとなる簡単な説教をしてほしい。私の霊魂の安息のために祈りを捧げてくださるすべての方に感謝します。
- 納骨のために。アッリ神父様やアチェルビ神父様のところ、会員たちのそばで結構です。
- 遠くに住む会員は、それぞれの支部でミサや祈りを捧げていただき、節約した旅費を貧しい人たちに差し上げてください。
- 会員や私を知る人への知らせは簡素な短いものにし、どうぞ祈りをお願いしてください。
- 私は神のみ旨ならば、日本で生涯を終えたいと願っています。キリスト者として、サレジオ会員としての召命をくださり、また、チマッティ神父様の近くで過ごさせてくださった神に、私は言葉に尽せない感謝でいっぱいです。
たくさんいただいた恵みに十分に応えられなかったことを悔やみます。
「死が近づくとき、イエスよ、早く来てください。あなたが望まれるときに、
私は去ります。しかしそのとき、私の傍らにいらしてください」(聖ベルナルド)
‐聖マリア、今も臨終のときも、私たちのためにお祈りください。
‐価値あるもの、それは永遠のものだけである。
D.Cl.Tasinari
(ドン・クロドヴェオ・タシナリ)
残念ながら、この手紙を見つけたのは葬儀ミサの直前でしたので、十分にタシナリ神父の願いに応えられませんでした。しかしながら、これから、タシナリ神父が遺してくださった精神を生かし、新たな世代のサレジオ会員にも受け渡し、歩んでいけるように励みたいと願っています。
第Ⅰ部
タシナリ神父の死亡通知書
土屋 茂明 神父
タシナリ神父は一九一二年三月九日、イタリア・モデナ市近郊の農村で、父ステファノと母ルチアの次男として生まれた。父は国鉄の職員で、社会主義者であった。母は熱心なカトリック信者で、ミサには欠かさず与り、「もし、私が男に生まれたなら、司祭になりたかった」というほど、敬虔な祈りをしていた。その祈る姿から、自分は信仰心を育まれたとタシナリ神父は述懐している。男四人、女三人の家族を養い育てた母であり、労苦をいとわない主婦であった。
12歳、サレジオ会の中学校に入った。二年生のとき、チマッティ神父が来校し、日本について講演をした。この未知の世界に関心をもち、講演後、早速、地球義を見て、小さな日本の位置を確かめたのだった。このことが、タシナリ少年の召命のきっかけとなったのである。
三年を終え、キエリの神学校の四年に転入している。そこは昔のフランシスコ会の修道院であり、聖堂には日本26聖人殉教者の壁画があった。祈りのときにいつもその壁画に目がいっており、日本への宣教師となることを決めていたと言う。修練期に入った五年の折、「日本に行きたい」と表明している。
一九二九年九月五日、ドン・ボスコの列福の祝賀のために一時、イタリアに帰っていたチマッティ神父と会い、師の「われわれは生涯、ドン・ボスコでなければならない」という言葉に感銘を受ける。
父母との別れを済ませ、12月15日、チマッティ神父に引率されて、タシナリ、ザナリーニ、フィリッパ、フローラン、ベルナルディ、カーニャ、ブラジョン、バラットの若者8人とマレガ神父、ラゴーニャ修道士は日本に向けてジェノバを出港した。
一行は一九三〇年一月二七日、長崎に到着。司教館に泊まり、長崎を案内されるが、特に殉教地を訪れたときの感動は大きく、キリシタンへの関心は高まり、後のキリスタン研究へとつながっている。
神学生時代
長崎に二日滞在して、福岡、大分を通って宮崎へ。宮崎では盛大な歓迎を受けた。大淀の宿舎に住み、哲学と日本語の勉強を始める。若者七名とマレガ神父、タンギー神父との共同生活であった。夏休みを鹿児島で過ごしたが、たまたま博物館を見学したとき、殉教者シドッティ神父のことを聞き、深く心に留め、詳しく研究しようと決心する、後の著書『殉教者シドッティ』となり、戯曲となる。
その後、宿舎は高鍋に移り、静かな環境のなかで、勉学は大いに進み、実地課程に入る。任地は大分で、日曜学校やマルジャリア神父が責任を取っていた印刷学校の世話をした。ここで、はじめてドン・ボスコの予防教育法の真価を知るようになるのである。
一九三三年八月七日、終生誓願
神学は香港で学ぶことになる。当初は落ち着きがなく、混乱気味の雰囲気であったが、ブラガ神父が院長に就任してからは秩序を取り戻す。残念ながら香港に行った六人のうち、日本に戻ったのは三人であった、しかし、香港時代も、タシナリ神学生とその仲間は、中学語をわからなかったにもかかわらず無言劇で、人びとを楽しませたのである。
一九三六年六月一三日、日本へ。十一月八日、タシナリ、ブラジョン、ベルナルディの司祭叙階式が宮崎教会で荘厳に挙行された。チマッティ神父にとってもこの上ない喜びであった。
翌日、宮崎教会任務を命じられる。日曜学校を世話し、また、三年前に開設された小神学校で教理を教え、個人的研究テーマとしては教会史を選び、六世紀までの歴史を『ペトロの船』と題して出版している。
一九三八年四月一日、小神学校勤務となり、六月末、チマッティ神父がイタリアに一時行かれたときには校長代行となり、翌年には校長となっている。
一九四〇年から四三年、修練長となり、上京する。
修練長:一九四〇-四三年
小神学校卒の生徒と共に上京し、修練長として、七人の修練者と新たな任務を、喜びのうちに遂行する。このころ、念願のキリスタン研究の成果を著書にする『殉教者シドッティ』と『初代日本切支丹史』である。
一九四一年末、アメリカとの戦闘状態に入り、戦時中の苦しい生活が続くが、結核寮養所への慰問なども熱心にしている。
一四年ぶりにイタリアに帰国した折、チマッティ神父を会本部に迎えようとする動きを知り、「チマッティ神父は日本サレジオ会の宝です」と言い、ジジョッティ神父に日本に残してくれるように頼み込んでいる。
神学院の院長:一九四四年—四六年
戦争は激しくなり、東京も頻繁に空襲に見舞われるようになり、ついに野尻湖畔に疎開する。終戦までの数か月、神学生たちは、飢えに苦しみ付近の農家に食物を求めるなど、辛い日々を体験するのであった。タシナリ神父は院長として東京と野尻をしばしば往復している。
サレジオ学園園長 一九四六年—四九年
戦後の混乱の時期、上野の地下道にたむろする戦災孤児の悲惨な現実に心を打たれたタシナリ神父は、チマッティ神父と相談し、彼らの救済を決定し、各所を奔走して、元の陸軍兵舎のあとに孤児を収容することになる。
東京サレジオ学院の創設である。
この事業を取材するために来た新聞記者、阿部徹雄氏はタシナリ神父と意気投合し、長い親交を結び、後に『日本に生きるドン・タシナリ』という著書を出版し、それはイタリア語にも訳されている。
学園ではドン・ボスコの予防教育を見事に実践し、彼自身も、その体験を『浮浪児と共に生きて』に書き留めている。
アメリカの「少年の町」の創設で知られていたフラナガン神父も学園を訪れ、その働きを賞賛している。
サレジオ会日本管区長 一九四九-五五年
一九四九年八月一五日、管区長に任命される。三七歳の若さであった。
そのとき、タシナリ神父は二○年ぶりの休暇で、三月からトリノにいた。家族との対面もでき、父母の喜びは大きく、家に泊まった数日はまたたく間に過ぎた。
日本に戻って、最初の仕事は日向学院の再建であった。当時の校長はチマッティ神父で、建物は戦時中の爆撃とさらに九月の猛烈な台風で損傷もひどく、授業はバラックで行われていた。校舎新築計画が建てられ、バチカンとアメリカの援助、寄付などによって新校舎が建てられ、バチカンとアメリカの援助、寄付などによって新校舎が完成した。フィグラ神父、ブラジョン神父の協力も大きかった。
次は大阪星光学院の創立であった。率先して行動したのはマルジャリア神父である。資金を集めるために、アメリカに何度も行っている。
その後、調布に神学院、碑文谷のサレジオ教会、下井草教会などが建てられる。管区長として、それぞれの会員たちの活動を見守り、励まし、大いに活躍する場を与えていたのであった。いろいろ困難もあったが、終始、平静で、明るく、前向きに考え、志願院や神学院に訪れたときには明るい話題をいつも、提供していた。
管区長時代、ご自分にいくらか権威をもたせようと髭をたくわえていたが、任期が終わったので、それも必要ないと思った。でも、剃ってしまうのも惜しい気もしたのだった。ちょうどそのころ、アメリカの宣教地援助事務所の代表者が来訪し、髭を剃ったなら、二五ドルの援助、さらに援助を続けようと言うような話になった。タシナリ神父はこんな髭も役立つとはありがたいと、自分の髭のある写真と髭のない写真を送ったのでした。その写真がアメリカの雑誌に掲載され、神学生たちに楽しい話題を提供している。
管区長の二期を打診されたが、それを断り、一九五五年に退任する。
管区長時代には日本カトリック社会協義会(カリタス・ジャパン)理事長もしており、一九五四年八月、韓国での事業も開始している。
一九五〇年、聖座の決定により、宮崎県の教会をザベリオ宣教会に移譲しているが、大分日田、臼杵、鶴崎、杵築に教会を開設している。
再び、修練長 一九五六年―五八年
修練長としての、タシナリ神父の姿について、そのころの修練者は「高潔な、泰然自若とした姿」と称している。また、判断力、思慮分別ということを強調し、「チマッティ神父様の振る舞いを見て、それに倣うようにと常に勧められていた」と思い出している。
日向学院校長 一九五九―六五年
日本サレジオ会の視察をしていたフェデリゴッティ副総長の指示によって急遽、学院の救済が求められ、ダルクマン新管区長より、「日向学院の質を向上させるために全力をあげてください」と依頼され校長に就任する。
ここで、特筆されることは、タシナリ神父と川部修道士の活躍である。二人は小学校をめぐり、さらには良い素質のある子どもの家庭を訪問して、生徒募集に力を注いだのである。また、中学校訪問も行い、高校の評価を高める協力もした。こうした巡回は五年ほど続けられた。その成果は表れ、小学校の先生のなかにも協力者が出てきた。その一人が鈴木修先生であった。後にサレジオ会司祭となった故鈴木勝重神父のお母さんである。
PTAの集まりも工夫し、多くの父母を集めることができた。タシナリ神父の人柄やユーモアのある話なども大きな魅力となった。
宮崎県の依頼もあって短期大学も創設している。社会情勢の変化もあって一九六三年には昼間部の募集を停止している。
六二年に、天正少年使節にちなんでのイベントがアリタリア航空により企画され、学院の井手口君がその一人に選ばれている。
大きな貢献をして、校長としての任期を終えた。
育英高専校長 一九六六―六九年
院長、校長として、会員、教職員からも尊敬されていた。学生に対しても常に彼らを見守り、成績操行会議なども欠かさず参加し、野尻キャンプにも生活を共にし、妙高夜間登山には積極的に先頭に立って登っていた。
世界的に荒れていた時代、日本でも学生たちの抗議活動は激しく、彼らの団体交渉においては自ら矢面にたって、平常心をもって対応したのである。
学校経営では、非常に苦しい状況と、残念ながら、全員の死去や退会が続いたこともあって、ご苦労も多く、そのため体調を崩されたのでした。
中津ドン・ボスコ学園 一九六九―七○年
四月、別府に着き、教会での宣教の仕事をと思っていた矢先、急遽、中津ドン・ボスコ学園責任を担うことになる、熱心に子どもたちと生活を共にするが、疲れもために、不眠症で苦しむようになった。やがて、充分な働きもできないことを思い、イタリア帰国を決意する。
このような年月にあっても、タシナリ神父の魅力にひかれ、心から敬愛していた若い会員がいたのであった。そのことは本人の思い出・手記にまかせたい。
イタリアでの十年 一九七〇-八〇年
イタリアに帰国してからも、院長をし、サレジオ会学校で教えている。
また、モデナ近郊のご父母の所にもたびたび訪れることができたので、二人に久しぶりに孝行をすることができたことは幸いであった。
イタリアの他の会員は、タシナリ神父の穏やかな平常心を見て感心し、それを言うと、「それは日本で身につけた」と答えたそうである。
ご父母が亡くなり、ご自分も健康を取り戻したと感じられると、タシナリ神父はもう一度、日本に帰って働きたいと願うようになった。
日本から、ドン・ボスコについて講演してほしいという依頼もあり、それを機会にして、日本に戻ることとなる。
別府サレジオ・ハウス院長、杵築教会 一九八〇―八七年
日本での宣教に直接たずさわれることに喜び、教理を教え、長年、書きためていた伝記や記録を邦訳していた。
宮崎小神学校で育てられ、会員となり、戦時下、招集され、戦死、あるいは病死した、『六人のサムライ』と言われる会員たちの小伝を後の人びとの模範としてまとめあげている。吉田ミカエル耕一、甲斐タルチジオ成人、牧セバスチャン政次、岩下トマス虎吉、西村ヨハネ四帰児、立石グレゴリオ此吉の六人である。深い哀惜の念にみちた伝記となっていて、心を打つものである。
杵築の教会を改築し、美しく仕上げたが、自らそこに住むことはなかった。ある会員は、「自分の果たした仕事の結果にはこだわらない、離脱のあり方を示されたのであった。ここにもチマッティ神父様の姿が二重写しになって〈チマッティ神父様を見なさい〉が本物に見えた思いがする」と記している。
別府教会協力司祭 一九八七―九四年
イタリア語で書かれていたキリスタン物語などを邦訳して、小冊子にしては教会の人びとや友人たちに送っていた。一つひとつでき上がる毎に喜んで頁を確認し、いただいた人びとからの感謝の言葉や返事があったときにはとても喜んでいた。
サレジオ・ハウス 一九九四―二〇一二年
次第に記憶力が衰えていったが、体調の大きな変化はなく、司祭叙階七十五周年を別府教会で盛大にお祝いすることができた。その記念に『多志成 語り伝え』が出版されていて、タシナリ神父を語り継ぐことのできる貫重な記録になっている。
その後、次第に弱くなられたが医者の定期的な診察と、介護サービスの利用、共同体の協力によって、九十九歳、亡くなる一週間前まで共同生活を続けられたのでした。
第Ⅱ部 別れのことば
タシナリ神父の思い出
溝部 脩 司教
今、私はキリスタン大名高山右近の列福調査の申請書をローマに送る作業を終えたところです。申請書の最後のところに高山右近について書かれた文献を載せなければならないという作業があり、インターネーットで調べましたところ、タシナリ師の文献が多数あり私は驚きました。タシナリ神父は多才であり、魅力的な司祭であったとさらに確信を強めました。
タシナリ神父は、チマッティ神父の生き写しです。チマッティ神父はドン・ボスコの生き写しです。この三人に共通することは、楽観主義に裏打ちされたバランスのとれた人柄といってもいいでしょう。タシナリ神父はチマッティ神父の右腕として動きました。実に十八歳で来日して、あとすこしで百歳になるのを前に帰天されたので、実に六十二年間(うち十年はイタリアに帰国)、ひたすらに日本のために尽くしてくださったと言うべきでしょう。チマッティ神父と共に、日本のサレジオ会の草分け期に、「最善は善の敵である」という言葉にしたがって、彼らは決してないものねだりはしませんでした。今あるところから出発する、人材がないことを百も承知の上で日本の宣教に挑んでいったのです。
私は修練期をチマッティ管区長とタシナリ修練長時代に過ごしました。ドン・ボスコが言った、「愛するだけではたりない。愛されているとわからなければならない」という言葉を、チマッティ神父とタシナリ神父は実現してくださいました。チマッティ神父がピアノを弾く、皆で歌い、劇をして。単純に笑ってという日々でしたが、私はすべてが満たされていました。現状を壊したりするのは簡単です。それよりも今、与えられている状況からよりよいものを作って、状況を変えていくことが大切であることを、私は学びました。まさに、タシナリ神父は、バランスのとれた共同体を作りあげました。
また、九十歳になると、昔の小神学校時代の仲間の伝記も書いていました。彼は日本人を愛し、日本の教会を育てました。教区司祭六名、サレジオ会員八名を輩出しました。タシナリ神父の遺書には「日本で死にたい」との望みが書いてあったそうです。
話は変わりますが、初代教会で信者の問題等が起きたときには、エルサレムの教会の軸、視点に戻ったと言われます。エルサレム教会には信者の生き方の原点があったのです。私たちも行き詰まったら、チマッティ神父、タシナリ神父時代に戻りましょう。
今、私の脳裏に去来するワンシーンがあります。若きタシナリ神父が上野駅あたりにいた行き場のない少年を、自分の自転車の後ろに乗せて、練馬の畑のなかを子どもと話しながら自転車を走らせているところです。いつか映画にしたらいいなと思うほど、叙情的な心を打つシーンでした。
タシナリ神父は八十二年間、奉献してくださった。どんなに感謝の言葉を重ねても言い足りないと思います。日本の土地を愛し、腰が座り、背骨が一本通った人でした。
最後に宮崎にいたころの思い出を語りたいと思います。私はイタリアの『嘆きの井戸』という劇を上演しようとして、イタリア語のテキストをタシナリ神父にもっていきました。すると「日本のテキストにアレンジしなさい」と言われたのです。ヨーロッパ直輪入ではなく、日本の風土を大切にするタシナリ神父の姿がありました。
私はこのとき、「愛する人柄になったら何でもできる」ということを体験したのです。
(葬儀ミサの説教)
タシナリ神父、おめでとう
村上 康助 神父
百歳を目前にして帰天されたタシナリ神父の穏やかなお顔を拝見したとき、私は思わず「神父様、よかったね。おめでとう」と申し上げました。
天の父なる神様は、タシナリ神父に「よくやった。よく帰ってきた」と両手をひろげて天国の門で迎えてくださったに違いありません。
管区長であったタシナリ神父とは、私と中垣純神父と共に修練期を過ごさせていただきました。そのうち八年間はチマッティ神父と、六年間はタシナリ神父と共におりました。タシナリ神父はチマッティ神父の生き写しでした。優しさ平常心は並外れたものがありました。
私はタシナリ神父をほんとうに自分の父として慕っていました。六十年安保の時代は、日本中の大学が荒れていました。育英高専もその運動に巻き込まれ、通常の授業ができるような状態ではありませんでした。団体交渉が始まったのです。本来なら、教務主事、学生主事を務める私が出るべきでしたが、私は口実をつけて逃げるしかありませんでした。
タシナリ校長は、そんな私に何も言わず、矢面に立って黙って引き受け、見事な平常心をもって対処しました。私はその場にいることさえできなかったことを、いたく恥じました。今思うとそのとき、未熟な私に身をもって教訓を残してくださいました。それは責任あるものは、いちばん辛いときに逃げてはいけないということでした。
以後何年か経過して、ローマでミラノ管区の院長会議があり、私もタシナリ神父のお伴をして行きました。そのとき、タシナリ神父は周りの院長たちに「なぜあなたは穏やかで平静でいられるのですか?」と聞かれていました。タシナリ神父は次のように答えました。「それは日本でならった」と。
最後に、私が今治に異動になったことを、赴任する前に別府にご挨拶に伺うと、いつもの温顔で「おめでとう。とうとう宣教師になったね。やっと間に合った」と言って祝福してくださいました。この師の言葉と模範を忘れずに神様から与えられた使命に踏みとどまっていきたいと思っています。 (告別式の弔辞)
第Ⅲ部 恩師の思い出
タシナリ神父を偲ぶ
恵美 漸吉 神父
タシナリ神父が逝去されたことを聞き、九〇歳になる私は老躯を引きずりながら、ご遺体の前で額ずき、自分のいたらなかったことをお詫びし、そして私自身も残された命の灯が消える前に、日本のサレジオ会のために言わなければならないことを告げる約束をいたしました。どうか年寄りの戯言と聞き流してください。
ドン・ボスコの生き写し
二〇一二年、私はサレジオ会員になって七三年になりますが、今日まであの宮崎小神学校のようにドン・ボスコの精神にあふれた支部を懐かしく思っています。タシナリ神父とのあの二年間は、私にとっては、まさしくそよ風の吹く春のような季節でした。
チマッティ神父様、タシナリ神父と共に生徒も先生も一緒になって歌い、笑い、楽しい遠足を味わっていました。これはまさしくドン・ボスコが少年たちと共に行った楽しい遠足と同じ光景だったと思います。これはチマッティ神父の大空のような心から湧きあがり、先生も生徒も自由に伸び伸びとふるまっていました。タシナリ神父は、チマッティ神父がもっとも望んでおられた家族の素朴な一体感を作るよう努力しておられたのです。
タシナリ神父は宮崎小神学校の様子とチマッティ神父の教育の仕方を見て、ドン・ボスコの教育を具体的に理解し、修練者の教育に利用しました。宮崎小神学校の規律は決して甘いものではありませんでした。厳格さ、そして細やかな愛情のなかで召し出しは養われるのだと思うのです。
タシナリ神父は、ドン・ボスコの教育の原点を探り、厳しさと限りない愛情と規律の厳しさで若者を教育しました。このような家族的、そして規則正しい雰囲気で教育された小神学生たちがサレジオ会の修練院に志願するのは当然のことでした。
旧制中学校の神学生のなかには、最初からサレジオ会入会の志向で宮崎小神学校に入学して来る青年もおりましたが、全神学生が自由に自らの道を選ぶことができるように、タシナリ神父は心がけていたのです。タシナリ神父は聖職者の道を選ぶことについては、何の強制も受けない選択の自由の雰囲気を保っていました。
宮崎小神学校の実り
宮崎小神学校は十一年間どんな実りをもたらしたのか、タシナリ神父がお書きになったものを紹介しましょう。
「一九四四年、戦争のため小神学校は廃校になり、のちに破壊されたが、十一年間にどんな実りを教会にもたらしたのだろうか。
廃校の年に東京からカトリック神学校にいた宮崎小神学校卒業生は十八名を数えた。残念ながら戦争のために芽生えた多くの召命は実ることはなかった。戦争に行った者のなか、戦死し、病気やその他の理由で召命を断念したが、最終的に小神学校の出身者から二十名の司祭(教区司祭)九名、サレジオ会九名、トラピスト会、フランシスコ会、それぞれ一名とサレジオ修道士が輩出しました。」
チマッティ神父が将来を背負う修練者をどれほど大切にされているかは、チマッティ神父の愛弟子であるタシナリ神父を修練長にされたことでもわかります。
七転び八起き
私なりの苦しみもあり、神父への道を中断しようと思ったことがありました。いつもタシナリ神父はじめ、多くの方々に励まされて司祭になりました。「あなたは肺結核です」と医者から宣告され、これでは司祭になっても仕方がないと思い、「神父になることを断念する」と助祭になる前にダルクマン院長に申し出ました。しかしながら、ダルクマン院長の信仰のこもった温かく強い励ましを受けて、助祭の叙階式に臨むことを決心したのです。六か月後に司祭叙階されました。起きて転び、転んでは起きてという七転び八起きの司祭生活でしたが、六十三年も司祭職を果たして前進することができたは、聖母マリアの助けがあったからこそなのです。
小さなサレジオの兄弟
最初に兵隊になった立石此吉修道士は、ときどき私たちに戦地から便りをくださっていましたが、いつも手紙の差出の名前に「小さなサレジオの兄弟」と書いていましたが、これがあの当時の日本のサレジアンの心でした。いつわが管区にこのような言葉が生まれるでしょうか。そのような管区になってほしいものです。貧しい管区でいながらも、ほほ笑みながらパンを裂き、喜びあいながらパンを食べる管区になってほしい。今は、一応勉強した男が集まって何かをしているような空気が日本管区に適した修飾語であるような気がしてなりません。
小さな兄弟、この言葉を受け継ぎ、この言葉の空気を忘れまいと協力したのがタシナリ神父ではないかと私は思うのです。彼の修練者としての教え子のうち、誰一人としてこの日本のサレジオ会から去っていったものはいません。神の招きである司祭職から逃れるものはいませんでした。このタシナリ神父の教育は修道院で楽をさせる教育だったのでしょうか。否と私は答えたい。修練者がいつも来ていたスータンはもらいものでした。もちろん、祝日、日曜日に着るスータンはほかに1枚ありましたが、夏冬兼用。ストーブなしの生活で、自習室では毛布を被って勉強していました。窓の隙間から雪が降り込む貧しい家。赤貧洗うがごとしとは、このことだったでしょうか。
ロマンと焔の道
一言でいえば、タシナリ神父の教育は厳しいものでした。ただし彼はそれに耐えるほどのロマンと焔を燃えたたせてくれたのです。一年経って修練期の最後の講話が始まりました。七名の修練者は全員下を向いて聞き、最後のタシナリ神父の熱のこもった講話を筆記していたのでしょう。私も筆記を始めました。ただし、目から落ちる涙とインキがまじって読めないほどノートの紙が汚れてしまいました。泣いていたのは私だけではなかったでしょう。厳しさのなかにも、まことの愛情をもっておられるタシナリ神父と別れるのが辛かったのです。
現にこの文を書いている老いた神父、九十歳の老人の目に涙がにじみ出ます。第二次世界大戦の厳しい生活に耐え、皆が神のまことの弟子として生き続ける人間を作りあげる秘訣を彼は知っていたのです。すなわち、真の愛を見た青年たちは、自分の説いた教えを守り続けることをタシナリ神父は知っていたのです。
黙するタシナリ神父
第二次世界大戦の末期、日本政府は外国人をまとめて田舎に住まわせる作戦をとりました。これは、アメリカ軍の日本本土攻撃は近いと知り、外人を田舎にまとめることにしたのです。第二次世界大戦が終わる年の六月頃、九州地帯のカトリックの宣教師たちは全員が阿蘇の旧噴火口の谷間にある旅館に集めてしまいました。旧噴火口の外に通じるには狭い一本の道しかありませんでした。米兵が九州の宮崎の浜に上陸することは予測されていました。米軍が上陸した際、宣教師たちは一発の爆弾で皆殺されるのではないかと思われていました。外国人を田舎に集め出したのはそのためだと推測されています。二十数名のサレジオ修道会の外国人神学生と神父たちは九州の宣教師と同じように人里離れた地に強制的に住むことになりました。東京の板橋区のサレジオ会神学校で生活していた外国人学生を神学校の外国人神父たちも長野県の野尻湖にある林間学校に住むことになりました。六月から二十名ほどの大きな体の男たちが自炊の生活を始めました。食べ盛りの西洋の青年たちの集団です。彼らの給食用としてもってきた食糧は二か月ほどでなくなる寸前でした。日が経つにつれ、貯えは底をつきました。あとは牛が食べる草を煮て食べるほかはないのです。野尻湖一帯は十月の未にもなれば、霜のおりる地帯です。草もしおれて一本も残りません。そうなると餓死しかありません。東京の修道院で作ったチーズ、ハム、ビスケット、パンを数名の日本人のサレジオ会員が野尻に汽車で運ぶのですが、大戦中は敵の汽車への空から攻撃もあり、また、いつも超満員で汽車の窓から出入りするので、そう数多くの荷は運べません。東京で作った食糧を野尻湖畔の宿舎までに行く間にある神学生、また神父がその荷を持ち受けて、その荷から食糧を預かるのです。ところが、宿舎に着いたときには、数が減っているような状態でした。餓死に直面して、自分の命だけを考えるのは人間としては当たり前です。あのタシナリ神父院長は黙して、ただ餓死する日を祈りつつ待っておられました。のちに地下牢でろくな食べ物も与えられず殉教したシドッティ神父の研究につながるのも、この体験から共感するものがあったからでしょう。
サレジオ会に残された形見
チマッティ神父とタシナリ神父を天国に送り、この地に残された私どもは何をなすべきでしょうか。彼らは何時も楽観主義者であり、少なく話し、言ったことは実行していく無駄なことの大嫌いな人間の姿を残してくださいました。これこそ彼ら二人が私どもサレジオ会員に残された形見だと思います。
チマッティ神父の歩かれた道だとタシナリ神父は常に考えていたのです。タシナリ神父の姿を書くことは、タシナリ神父の画かれた通りの神父になろうと努力しなかった私の告白でもあるのです。
タシナリ神父の心はいったい何だったのでしょう。それはどのような状況にあってもチマッティ神父と一体となるべく努力し、力のある限り尽くしたことです。彼のロマンは彼の厳しさを、会員に受け入れさせる力をもっていました。私どもタシナリ神父が残されたことを大切にいたしましょう。
われら日本のサレジオ会員が聖なる人になる道は
ドン・ボスコを見たチマッティ神父が歩まれた道を
タシナリ神父のように従うのみ
タシナリ神父、心を創ってくださった司祭
金子 賢之介 神父
追想1 ドンデン返し
この方がいたので心が救われ、今も歩いている。
激しい戦争も未期、紙と木の日本の町は焔の海となって、一望千里焼野原となった。私の手もとに第二次世界大戦も未期の頃、B29爆撃機が東京上空に撒布したビラ1
枚、貴重な戦争歴史遺産として持っている。「天皇に上申して戦争を止めなさい。広島に投下された原爆一つがどんな惨劇をもたらしたか、諸君はまじめに考えなさい……」そんな脅迫ビラがおちる少し前のこと。世界に最強のB29大編隊が、富士山頂を目標に集結し、各部隊へ散って1トーン爆弾の雨を降らしていた。
日本の航空機にすでに戦闘の力も数もほとんどなくなっていた。
ある日、空襲警報と共にB29の大編隊がまっすぐ東京上空に近づいていることを知った。皆、サツマイモの皿をかかえ、防空壕で待機し、不安気に空をうかがっていた。
私は防空ずきんをかぶり、神学院の入口玄関に身をひそめ耳をすました。神学院、育英高専のグラウンドの上、世界最強の四発爆撃機B29が三機編隊で悠々と空を圧してきた。敵ながら、その姿は美しく堂々として空を圧していた。
そのとき、私は身を乗りだした。すでに日本の戦闘機も敵を迎えられなかったというのに、あの零戦三機が忽然として現れ、私は目を見張った。
三機編隊先導の右翼の巨体目がけて爆撃しようとしたが、すぐその目標をめざし下方へ落下した。第二機の零戦はすかさず、第三エンジンに直進してきたが、集中砲弾を浴びて機体もろとも燃え尽きた。
私は鼓動をおさえるようにして最左翼の第四エンジンに体当たりした零戦を見た。
空は青一色で、B29の翼はきらめく光であった。その瞬間、今も私のまぶたに焼きついた閃光で、私はこぶしをしっかり握っていた。壮絶な体当たりだった。むろん零戦は火のカケラとして空に散り、B29のエンジンは煙と火を吹いて速度をおとし、東京湾へ出ると兵隊は待機していた潜水艦に救助され、やがて航空母艦へと移されていった。
あとにも先にも私が見た凄まじい戦闘体験であった。
私は興奮したまま、軍国の少年らしい一途な気分のまま、当時、別館の二階にいた修練長の部屋に飛び込んだ。
「修練長さん、修練長さん、私、特攻隊を志願したい!」
心のどこかで叱られるか、バカにされるか、一笑にふされるとも思っていた。
修練長さんは、ペンをそっと机の上に置くと、私をじっと見て、静かに口を開いて言った。
「うーん、それも悪くはないねえ!」
思いがけない言葉にハッとした私に、タシナリ修練長さんはたたみかけて言った。
「あのね、カネコさん。神様に体当たりしたほうが、もっといいと思うよ!」
あらゆるドンデン返しは、この一言から始まった。
この神父さんが、若い多くの人たちから愛され、尊敬されたのは、当意即妙、大胆な発想、おおらかな精神性と信念の持ち主だったからだと、つい先日、帰天されたことを聞き、思い出さずにはおれない。
あの一句はキーワードになった。生涯の決め手となった。
追想2 奇跡はいらない
聖人とは、驚天動地の奇跡の人という不思議をくつがえすキッカケとなった私個人の思い出を語りたい。
第二次世界大戦中、イタリア、ドイツ・日本の三国同盟の一角が崩れた。チマッティ神父様(管区長)が三河島教会へ移られた頃のことである。
ある日、タシナリ神父様が私を呼んで、この手紙(書類)を三河島教会のチマッティ神父様に届けていただきたいと依頼された。私はすぐに出かけ、三河島教会の事務室へ手紙を届けた。例の三国同盟のパドリオ事件後だったので、警官が二人チマッティ神父様の事務室の両サイドにいた。
手紙を渡す用事は済み、直ちに私は三河島教会の駅へ急いだ。
切符を買おうとしてポケットに手をつっこんだときだ。突然、耳元で、
「カネコさん!カネコさん!」と大声がした。
いぶかしく思ってふり向いたとき、真っ白いおひげを風に吹かれたばかりで二つにわかれ、息をはずませて私の腕をつかみ「帰りましょ、帰りましょ、」という。
帰ろうったって私は下井草の神学院へ帰るのに。
「まに合った、まに合った。よかった!あのね。ふと時計を見たら12時でしたよ、お昼ごはんもあなたにさしあげないで、遠いところを帰られなくてはなりません。さあ、教会に戻ってお昼を食べ、そして帰りなさい!」
私は、びっくりした。そして、にわかにこの六十歳をこえた老人の管区長。聖人と噂高き人、走ったり歩いたり、しかも、たかだ一人の少年にお昼をあげずに帰したというそれだけのこと、そうした一切のことが私にはこれが奇跡だ。こんなことを教えられる人、これこそ精神の姿、聖なる魂の心づかい」
私には奇跡はいらない。人間は真実で、魂の愛の重さで充分ではないのか。そんな信念に変わってきた。
追想3 江戸切支丹屋敷
タシナリ神父様の追想のペンを手にすると、修練者の頃、小石川の江戸切支丹屋敷、その周辺の情景が動き始める。心ゆたかなタシナリ神父様にとって小石川は歴史の聖地である、多くの宣教師、特にシドッティ神父という迫害期の信仰を戦い、生きぬいた地でもあった。
私たちが、神父様の案内でここを訪れた頃は、切支丹屋敷跡は森にかこまれ。人も住まず、夜泣石という、いかにも、いわれのありげな淋しい一帯であった。江戸の風情が感じられたが、今はただ屋敷らしいものは何一つ見あたらない。
わずかに、「都史跡 切支丹屋敷跡」と名が残るだけだ。
ここで私たちはこの屋敷で、タシナリ神父様の熱い思いをこめた二人の名にふれた。幕府最高の知職人「新井白石」とタシナリ神父様が「最後の殉教者」と呼ぶ、「ヨハン・シドッティ神父」である。東西二人の人格、文化、友情を生み出した二人の出会いであった。
白石の『西洋紀聞』はここで生まれ、白石はシドッティ神父を助けようと考えたふしが見られる。シドッティ神父の処遇について白石はこのような献策を立てている。
故国イタリアへ返すのが上策、永牢を申しつけるのが中策、そして死刑に処するのが下策だと。幕府がとったのは中策だった。それは結果的にシドッティ神父の最後の運命となる、長助、お春という神父の身のまわりの世話をしていて、ついにシドッティ神父の教えに惹かれ受洗を機に、シドッティ神父は深い穴におし込まれ最期を迎える。タシナリ神父が「最後の殉教者」と評したゆえんである。
小石川の切支丹や四季、その史跡を通して、シドッティ、白石、ひいては遠藤周作の『沈黙』のジュゼッペ・キアラ、今も調布神学院に一隅におかれた切支丹屋敷で終えたキアラ神父の墓の前で迫害期における彼らの懊悩に思いを馳せるのである。
終記
「今現在、九十九歳、日本のサレジオ会員中の最長老ですね。百歳まで生きるかもしれない」
そんな噂がちらほら聞こえていたが、タシナリ神父様は、忽然と神様のおそばへ、師チマッティ神父様のいらっしゃるサレジオ家族のもとへ召されていった。
私は別府教会の告別、追悼の席にはべった。ほんとうに大勢の司祭、シスター、信徒の方々が祈った。
思い出が次々と私の心に浮かんだ。宮崎の小神学校を追放されそうになったときにも救ってくださったのはこの方だった。私はとりえのない平凡な存在だったのに。
美しい別府湾をのぞむ火葬場にも行った。
火葬場からいったん、宿泊所に帰り、友人を訪ねるつもりでタクシーをひろった。この年若い運転手はしきりに私の素性や、東京から来た私にいろいろたずねた。
私は素晴らしい恩師の葬儀に東京から来たこと、そしてあの「体当たり」の話をした。黙って聞いていたが、ドアを開けて外へ出た私のところに運転手がやってきた。そして言った。
「その方は素晴らしく人の心がわかる方ですね。神様に体当たりしなさいとお客さんにさりげなく言える人って、たいした人ですね。いい話をありがとうございました」
運転手は私に頭をさげ、運転席へ戻って私と別れた。
こんな体験をしようとはまったく思っていなかった。
神様に呼ばれたタシナリ神父様への最後のオマージュとして私は心に刻んだ。
タシナリ神父様、ありがとう
山頭源太郎神父
タシナリ神父様、ありがとうございました。
神父様の優しいお姿、熱心に生徒を助けてくださったお姿は、今もいきいきと生き続けています。思い起こせば数えきれない程ありますが、日本におけるサレジオ会をしっかりと根づかせてくださった姿は若い神学生にも大きな感動を与え、刺戟になりました。
たくさんの素晴らしい思い出のなかで、どういうわけか今も特に強い印象として残っていることを一つだけ書いて、偉大なる大恩師への感謝のしるしとさせてください。
戦争中のことです。私どもを助けようとして宮崎小神学校から東京の旧制中学校に編入させていただいたときのことです。私はタシナリ神父様に相談に行きました。「陸軍士官学校へ推せんされました。どうでしょうか」。神父様は私に辞退することをすすめられました。行きたい思いもありましたが、私は断りました。あとで聞いたことですが、私の同期は流黄島で全員玉砕したことでした。命の恩人です。
「どうせあなたは兵隊に行くのでしょう。志願してまで行くことはないでしょう」と言ってくださったのです。時が来て私は台湾軍に入隊して今日に至っております。タシナリ神父様が帰天された今、決意を新たにして神父様への感謝のなかに生きるよう心がけます。どうぞ安らかに! (福岡教区司祭)
タシナリ神父様の思い出
バウチスタ・マッサ神父
ネバロウ会
一九六○年から私は人事異動で宮崎の日向学院に行きました。タシナリ神父様は学校の校長、私は財務として四年間いっしょに働きました。そのとき言われた事は今でも思い出します。「私はお金のことはあまりわからないので、生徒の月謝のこと、先生方の給料などすべて任せます。頑張ってください」でした。毎週の月曜日に運動場で朝礼がありました。タシナリ神父様がよく繰り返された言葉は、「ファイトとネバリ」でした。その翌年に学校行事として、「歩こう会」が始まりました。先生がたの意見で、「歩こう会」のかわりに校長先生をたたえるために「ネバロウ会」と変わってしまいました。夜十一時から、高校性は40キロ、中学校は30キロ、学校まで走るのではなく、最後まで歩かなければならないというイベントでした。元気な先生がたや事務職員も参加しました。タシナリ神父様は先頭のグループと一緒に歩きました。最後まで歩けた先生は完歩賞をもらいました。
父、危篤の知らせ
ある日、タシナリ神父様の「父、危篤、もう時間の問題」という知らせが来ました。神父様は次の朝礼のときに、先生がたをはじめ、全校生に自分のお父さんが帰天したと発表してしまいました。翌日、学校全体で葬儀、ミサが行われ、亡くなられたお父さんの永遠の安息を祈りました。ところが数日後にお父さんは元気になりましたという手紙が着きました。もちろんこの知らせは会員以外、誰にも伝えませんでした。お父さんは死ぬ前にぶどう酒を飲みたいと言ったので、おいしいぶどう酒を飲ませたら、奇跡的に元気になりました。あれから約十年間、頑張ったそうです。
天正少年使節350周年記念
一九六三年、新しい体育館が落成しました。タシナリ神父様の希望で、天正少年使節の一人、伊東マンショの名前をつけました、日本のキリスト教の歴史関係の本をよく読んでいたタシナリ神父様は、天正少年使節350年記念行事のために東京のバチカン大使の力を借りました。宮崎県、西都出身の伊東満所という少年がいたので、この計画の実現を強く望んだのです。そして一九六二年七月に日本の四人の生徒が選ばれて(その中には、日向学院中学校二年、井手口和満君がいた)ローマに送られました。団長としてグレバコーレ神父様が同行しました。
タシナリ神父様の言葉
石井靖人神父
Ⅰ 日向学院短期大学を閉鎖したというニュースを聞いて
「使命を果たしたという喜びを私は感じている。」
Ⅱ サレジオ学園(タシナリ神父様が始めた)について継続か廃止かが話し合われているとき、
「ドン・ボスコの精神でやれるか、やれないかだ。」
出会い、別れ、そして残ったもの
藤川長喜神父
今にして思う。タシナリ師という方は自分にとって何だったのか?
かれこれ三年前にもなりますか。私が実地課程の神学生であった時、私たちの修道会にとんでもない不幸な事件がありました。内外に様々な波紋を生み出し、年度の途中であったにも関わらず、一部、人事異動も行われたのです。そこで、はるか九州の地にあった私のいた支部に、隠居していたある司祭が長上として赴任してくることになりました。これは、私にとって思いがけない幸運な出来事でした。この方については高名であったにも関わらず、私の世代では私だけがまだ接する機会がなく、そのことが私には引け目に感じられたし、またそれだけに憧れにも似た敬意を長い間、ひそかに抱いていたからです。
♰ ♰ ♰
仮に、その方をT師というふうに記しましょうか。
T師はうわさにたがわず、高潔な人格の持ち主でした。けれども、どことなく寂しさを漂わせているように私には思われたのです。このようなT 師に、私は出会った瞬間から強く魅きつけられていきました。そこで子どもの教育、神学生としての生活などを話題に、私の方から積極的にT師に近づいていったのです。そのうちに、そういう話題はどうでもよくなり、折につけ、内から滲み出るような優しさを示してくれるT師自身に興味を持つようになりました。
あれだけの経験と経歴を持ちながら、世を避けるかのように、特別な仕事を持とうとせず、孤高を保った、その生き方。それでいて、みずみずしさを失わず、静かで穏やかな人柄…。そうした生き方の理由を聞きただしたい!近づきがたい一方で、どうしても近づかなければいられないという感じが、私の中で焦りのように渦巻いていたのです。人間を愛し、愛さずにはいられない人でありながら、自分の懐に入ろうとする者に手を拡げて抱きしめることのできない人……、そんな印象が、私の内に深く沈みこみました。
仕事の合間をぬって足しげく、T師のもとに通いました。とにかく話を聞きたかったのです。その生涯、その考え方を探ろうとしました。私は若く、情熱もあったのだと思います。T師の血を自分の血とし、T師の肉を自分の肉にしたい!私は幼い時から、人間には一倍関心があり、好きでたまらないくせに、関わりとなるとどこか醒めた、一定の距離を置く人間でした。そういう自分としてはめずらしい心境が、当時の私を支配していたのです。
よく言われます。人は、人生の終わりに近づいてくるのを予期したとき、一生のうちに味わった様々なことを思いだす。。そして、そうした並々ならぬ経験が自分に与えてくれたものを、そのまま埋もれさせたくないと願うものだと……。T師は自分の、日本での人生の日々の終わりが近づいたことをしみじみ感じていたようです。事実T師は、日本を去ることを、いよいよ決心したのです。そして、そうした思いを若くて未熟な私に、友人としてポツリポツリ話してくれたのです。
私は考えました。『小さい穴から見えるだけの世界しか見えない若さに、T師の思いが受けとめられるはずがないではないか。T師の方でも、一方では誰かに全てを打ち明けずにはいられない衝動に駆られながらも、もう一方では誰かによって、ましてや私みたいなちっぽけな者によって、事が解決するなどとは毛頭、考えてもいないだろう。』どんなにT師に魅かれていても、その経験と思いを分かちえない自分の若さと未熟さがはがゆく、いらだたしく思えてなりませんでした。
ついにT師は、その人生の大部分を過ごした日本という「舞台」を、実に潔く去っていきました。花道を通ってではなく、幕の向こうの通用口をくぐり抜けて……。T師は私の前から姿を消しました。だからといって、T師への思いがそれで冷めたわけではなりません。むしろ、つのるばかり。そこで私は文通という手段で、T師との出会いを続けることにしたのです。むしろ、こちらの方が、思いを表現するには好都合でした。
数年、やりとりが続いたでしょうか。実地課程を終えて神学院に戻り、神学に取り組んでいたある日のこと、私はT師から、次のような手紙を受け取りました。
そこにはいつものように、ストラと背すじの伸びた大らかな外見からは思いもつかない、グジュグジュと凝縮されたローマ字がびっしりと並んでいました。T師の口調そのまま、淡々としたなかにも慈愛あふれたことばがひと通り綴られた、その後に、
『あなたが私のことを、それほど慕い尊敬してくれることは、ありがたく思っています。しかし、しかし、真実、慕い、尊敬すべきはキリストだけです。先生は、ただひとり、キリストだけ!』
いきなり、頭をガーンとなぐられたようでした。そして、次の瞬間、目の前がまっくらになり、手紙の中の『先生は、ただひとり、キリストだけ!』という一文のところだけがスポットに照らされ、あとは何も見えなくなってしまったのです。私は、穴のあくほど、その文字を見つめていました。けれども、思考は停止したまま…。
この言葉は、何度も耳にし、目にし、そして口にした福音書の一句です。でも、その時、私は本当の意味で、はじめて耳にし、はじめて目にしたのです。「目からウロコが落ちた」とは、あんな時のことを言うのでしょう。参った!と思いました。くやしくて、くやしくて、身体が震えんばかりでした。
そのあと、手紙の続きを読んだのかどうか……。
心臓の鼓動が平常音を刻むようになって、やっと、こう思いました。T師のように、稀にみる人格に出会い、恵まれたにも関わらず、T師は、私の人生において、やはり一人の過ぎ行く人でしかなかった。
この事実の前にくやしいけれども、頭を下げなければならないー。
その時以来、私はT師との文通を断ちました。その手紙の返事も書かないという失礼もしたのです。
T師は、私にとって、初めての、そしておそらく最後の、情熱をかけることのできた人であったと思います。そういう意味で、若い時期にT師との出会いをもてたことは、私の人生の中で限りない幸せであったと思うのです。そして、何よりも、『先生は、ただひとり、キリストだけ!』ということを、強烈に教えさとしてくれたことは、どんなことがあっても忘れることができません。
数年後、私は司祭になりました。そして、司祭生活二十数年たった今、しみじみと思うことがひとつあります。司祭というのは、秘跡の授与者であるのみならず、司祭そのものが秘跡なのだということです。秘跡の場で、人はキリストと出会います。司祭は、その秘跡の授与者として、人々をキリストへと結びつけます。しかし司祭は秘跡の場に限らず、日常の言動、あるいは存在そのもので、人とキリストの出会いを実現してしまうのです。司祭当人の予期せぬ形で……。
これは驚くべきことです。すばらしいことです。司祭なにがしによってではなく、そのなにがしが、たとえ、どこの馬の骨であろうと、また、ひとかけらの才智さえ持ち合わせていなくても、司祭そのものによって、それが現実してしまうのです。司祭というもののすごさを感じるのです。
司祭は秘跡。人をキリストへと出会わせる秘跡!
今になって気づくのです。あの時、私がまだ若くて未熟な神学生だった時に、司祭であったT師自身が、この私をキリストに出会わせてくれた偉大な秘跡であったことを。そして、あらためて嬉しくてたまらなくなるのです。T師との出会いを通して、雄一の師キリストに出会えたことを。
(敬愛と感謝をこめて、この拙い思いをT師に捧げる。千九百九十六年九月記)
後日譚
タシナリ師が再び日本に戻ってきた。あれ以来、20数年ぶりであろうか。何度か、お目にかかった。心のうちに恥じらいと覚めた気持ちを秘めて。ある機会に青春の日の出会いと別れをさりげなく打ち明けた。タシナリ師は遠い日を見るような目でポツンとつぶやくように口を開いた。「なんだか、そんなことがありましたねえ。―ちょっと間をおいたのち、淡々とした口調でー あのころ、わっち(わたしというとき、いつも、こんな発音をする)はずいぶんと疲れていて、自分でも精神的におかしかったからねえ」。確かに端から見ていても、心身の疲労と心痛はかなりのものだった。それにしても、私にとっては強烈で深いできごとだったことが、タシナリ師には、記憶の底に沈みこんだ、かすかなおぼえでしかない。なんだ、ひとり相撲だったのか!静かなショックが、じわじわと私の中にひろがっていくのを覚える。大きな痛手にならなかったのは、あれから随分と時間が経過し、私自身もいくらか成長し、それにタシナリ師のことは自分のなかで既に折合いをつけていたからだろうか。そうなんだ、そんなものなんだー。あのころの情熱、人をこい焦がれた、あの数年間は一体、何だったんだろうか。これまた後悔にも似た苦い思いが心の中にじわじわと、しみ出してくる。
人間同志の出会いとは何なのか。ひとりの人間の人生の途上で、人は様々な人と出会い、交差し、すれちがい、そして別れていく。再会を果たすこともあれば、二度と会うこともない人もいる。そんななかで、互いに、いかなる影響を与えあえるのか。何が残り、何が残らないのか。決定的に記憶に刻み込まれる人もいれば、空気のような人もいるし、風のような人もいる。そもそも人間同志の交わりは神様の前で何なのか。神様は、それをどうごらんになっているのか?
タシナリ師との出会い、別れ、そして残ったものをあれこれ想いおこしながら、今、そんな思いにとらわれている、少しばかり、苦味をかみしめながら……。
第 Ⅳ 部
サレジオ・ハウスの人々の思い出
タシナリ神父の思い出
シモンチェリ・カルメロ神父
神様のご計画
タシナリ神父との最初の出会いは、一九四九年でした。十七歳のときに来日し、二十年ぶりに初めてイタリアに戻り、新しい管区長の任命を受けました。そのとき、トリノのサレジオ会の神学院に来られて、数人の学生に、「私は、日本から来て、これから日本でも新しい神学校を計画しています」と言いました。私と直接に関係ないと思いましたが、夏休みになって、突然、本部から手紙がきました。その内容は、私の宣教地への願書が受け入れられて、日本に行くことになったということでした。
私は、哲学と教育学の修士課程を終わったばかりでしたから、日本で哲学の先生として、神学院に行くことになっていました。それで、タシナリ神父様ご自身が、本部の目上に私の名前をあげたかもしれません。管区長になって最初に募集された者として、神様の計画のなかにタシナリ神父様の生活の最後の十年間の友となることがあったかもしれません。
十年前、私が別府に来たときに、タシナリ神父様はサレジオ・ハウスで、ひと仕事をしていました。それは、前からイタリア語で出版していた日本のキリシタン物語、何人かの宣教師たちの伝記を日本語に訳して出版しながら、教会や友人たちに配ることでした。その仕事にたくさんの方々が協力することになり、一つひとつ出来上がると、ご自分で手にとり、喜んでページ確認をしていました。出来上がった物が教会や友人に届けられることに満足していました。特に、送られてきた人から感謝の言葉や返事があったときは、とても喜んでいました。
晩年の日々
それが終わると、記憶力が次第に弱くなりました。体調の大きな変化はなく、二○○六年に司祭叙階の75周年を別府教会で盛大にお祝いすることができました。たくさんの司祭と信者たちが参加して、祝賀会のときに、 “sempre allegri” という励ましの言葉を残しました。
ご自分で二階の部屋まで上がっていた頃には、毎晩、玄関の所に立って、三つのマリア様のご像を眺めて祈っていました。玄関のご像、ドアのガラスに映っている同じご像、そして庭の奥に立っているルルドの聖母像です。短い時間ですが、マリア様との深い出会いが行われていたのでしょう。車椅子に乗るようになってから、窓の外の風景を見て、大自然の美しさにとても感動していました。
医者の定期的な診察と、介護サービスの利用、特にサレジオ・ハウスで共に生活する人々の協力によって九十九歳まで、亡くなる1週間前まで共同生活を続けることができました。
九時からの共同体のミサに参加し、ご聖体をいただいていました。昼食は誰かが面倒を見てあげていましたが、皆と同じように出されたものを食べており、食後のコーヒーを楽しみにしていました。二時間くらい昼寝をし、その後はもう一度、車椅子で五時のロザリオを皆と一緒に唱え、夕食も一緒でした。
それから、就寝の準備のためにヘルパーが来るまで、テレビの部屋で皆と一緒に過ごし、そのときにはよく話をしていました。
皆といつも生活を合わせることはたいへんだったと思われましたが、不満やいらだちを見せず、いつも感謝しながら過ごしており、共同体の模範でした。やや、記憶力が衰えてきたときでも、身だしなみや礼儀正しさなど、しっかりと保ち、紳士でした。相手に対する尊敬と信頼を常に示し、そのまなざしは冷静で、明るく、人々を元気づけるものでした。“avanti , allegri” 私たちを励まし続けるタシナリ神父のメッセージです。
記憶力があまり動かないときでも、身だしなみや礼儀正しさなど紳士の姿は、以前の元気なときと同じでした。相手に対していつも尊敬と信頼を起すような姿でした。その精神はいつも生き生きとしていました。そのまなざしは、いつも冷静で明るく、人を元気づけるような生き方でした。相手からの反応を求めるような言葉や身振りは、自分のなかで何かしなければならないことが残っていることを私たちに知らせたかったかのようでした。それは、日本の福音宣教に対する熱意ではなかったかと思います。九十九歳まで自分が続けた使命をこれからも熱心さをもって働くように“ avanti allegri”。私たちに残されたメッセージです。現在も福音宣教は難しくてあきらめたり、失望したりする誘惑に陥る可能性があります。これから、カトリック墓地に今まで働いた、たくさんの宣教師たちと一緒に眠りながらその心は常に私たちと一緒に生きていて、また、神のもとで私たちのために必要な恵みを取り次いでくださると信じています。いつの日にか彼の宣教師とし日本に抱いていた夢が実現しますように。
タシナリ師の思い出と
サレジオ会の歴史
木鎌雄一郎 修道士
五年ほど前、サレジオ・ハウスで共に生活していたときに、タシナリ師に聞いてみたことがある。
「タシナリ神父様は、ドン・ボスコを知っている人を知っていますか?」
タシナリ師は事も無げに応えてくださった。
「知っているよ。私が若いときの目上はみんなドン・ボスコの子どもだった。
ご自分が初誓願を立てたのは「フィリポ・リナルディ総会長の前でだった」とも話してくださった。
同様のことは、故マエストロ修道士、故マジェロ修道士、にも聞いたことがある。
「ドン・ボスコを知っている人を知っている」。このことは私には強く印象に残った。
タシナリ師が帰天された日が一月二十七日とドン・ボスコの記念日に近い日だったのと、葬儀が別府教会で行われたこともあって、翌日のユースセンターで子どもたちにドン・ボスコの話をする際に、このことにも触れてみた。ドン・ボスコを知っている人を知っている人が自分と同じ時代に、それも別府市内というごく近所で生きていた。この貴重なる事実を少しでも理解して欲しいし、ドン・ボスコが決して大昔の伝説のなかにいる人ではなく、自分の生きている世界と地続きの場にいた身近な存在であると思ってほしいと思ったからだ。
幼い頃にドン・ボスコを見たというチマッティ師との思い出を持つ人はサレジオ会員に限らず、まだ多くの人がご存命であるが、ドン・ボスコが直接育てたサレジオ会員を知っている人は日本ではおそらくタシナリ師が最後であろうと思われる。私が老人になる頃には、「私が若いときにはチマッティ神父様を知っている人がたくさんいたよ」と若い者に自慢をすることだろう。こうして少しずつでも歴史を語り継ぎ、若者や子どもたちが聖人や神を身近に感じるように導くことができれば嬉しいことである。
タシナリ神父様、今も
シスター 鬼束和代
(いつくしみの聖母会)
十年ほど前から、タシナリ神父様にイタリア語を教えていただくようになった。そして、神父様が「宣教師として最後の仕事」としておっしゃって始まったパンフレットの仕事の手伝いが終わったあとも、自分自身イタリア語を忘れないためと、神父様の笑顔が見たくて、毎週日曜日の午前中、サレジオ・ハウスに行くようになった。やがて、神父様のなかからイタリア語も日本語も、だんだん消えて行ったが、「ボンジョルノ コメスタ?」「ベーネ ベーネ、エ トゥ?」というあいさつの言葉と優しい眼差しは変わらなかった。
二年ほど前、私は、一人の韓国人の青年を神父様の所に連れて行った。彼は、別府にある立命館アジア太平洋大学の一年生。韓国には、徴兵制があり、そのとき彼は、二年間兵役に服するため休学して帰国する直前だった。私は、生命の危険がないとも言えない戦争を想定して行われている徴兵に応じて行くこの青年を、ぜひタシナリ神父様に引き合わせたいと思ったのだ。タシナリ神父様の人としての生命の大きさに触れ、大きな生命の流れのなかで強く生きてほしいと思ったからである。そのときも、タシナリ神父様は、笑顔で彼を迎え、何か言いたそうな目で彼を見ておられた。神父様に祝福して頂いて、彼は韓国に帰っていった。その後の二年間、私は神父様の所に行く度に、和太鼓のサークルに入っていたその青年の顔写真の載っている和太鼓の公演のプログラムを開いて神父様に見せ、彼のために祈ってくださるように願った。神父様は、あるときは、「OK」またあるときは、「いいでしょう」と答えてくださった。そのプログラムの表紙には、「鼓舞子でドン」と書かれていた。「神父様、鼓舞子でドン。このドンは、ドン・タシナリのドンといっしょですね」と言って、ドンの所を強調して発音すると必ず神父様はうれしそうに、「そうでしょう」と子どものように、ほほ笑んでくださった。
二月十二日、タシナリ神父様が亡くなられて三週間目、軍隊の休暇で別府に戻って来た彼と、サレジオ・ハウスの聖堂に行った。小さな花かごを遺影の横に飾ったあと、彼は「もっと早く帰って来られれば良かったんですね」と悲しそうに行った。「大丈夫。今は天国だから、もっと良く見守ってくださる……」と遺影を一緒に眺めながら、私はしばらくタシナリ神父様のパンフレットを通して知った浮浪児との出会いなどタシナリ神父様の物語を分かち合った。そして、彼は、「ワタシ、そんなすごい神父様に会えたんですね。良かったあ。これからも頑張ろう」と、すっかり元気になって明るい笑顔を見せてくれた。
タシナリ神父様が、天国に行かれたことによって、私には、天国が今まで以上になつかしい所になったように思う。天国に行かれたタシナリ神父様は、ずっと変わらず、私たちを励まし力づけるために働いておられると信じている。私たち一人ひとりが、笑顔になれるように。タシナリ神父様に出会わせてくださった御父に感謝するばかりである。
タシナリ神父様の訪問リハビリテーションを担当して
首藤 修
(別府中央病院 理学療法士)
二〇一〇年一〇月から私がサレジオ・ハウスに訪問し、神父様との協同作業が開始されました。当初、イタリア人と聞き、「日本語が通じるのかな?」と心配しながらのリハビリでしたが、なんと神父様の日本滞在期間は、私がこの世に世を受けてからの期間よりも長いということがわかり安心しました。
シモンチェリ院長からもイタリア語の単語を教えていただき、次第に意思が通じ合えるようになりました。
神父様は日本語も理解されるのでこちらの言い分は通るのですが、神父様がイタリア語でベラベラ話されると私はサッパリでした。
しかし私も身振り手振りと、なけなしのイタリア語で対抗し、結構、意思は通じ合えていたと自負しております。
私とは国も文化も言語も宗教も異なる方でしたが、そんな垣根をまったく感じさせず、まったく普通に接することができた神父様でした。
笑いが絶えない雰囲気で、私が接することができたのは神父様の心のなかから溢れ出る「優しさ」「慈しみ」だったのかもしれません。
神父様、ごゆっくりお休みください。
夢のなかで何度かお会いしましたが、またお会いできると嬉しいですね。
タシナリ神父様の思い出
幸 美和子
(介護ヘルパー)
毎朝七時にタシナリ神父様のお部屋をお訪ねします。
「ボン ジョルノ?とお声をおかけしカーテンを開けます。
窓から見える景色を片言のイタリア語と日本語で説明しながら、
体温や血圧を計り、お顔の色を見させていただきます。
晴れの日は、とても素敵な笑顔を見せてくださいます。
少々寝不足の日も、緑一面の山々や澄み切った青空に心を和ませ
穏やかに離床していただけます。
雨の日は少し暗い外に沈みがちな日もあります。
私はいつも楽しくなりますようにと歌います。
♪ 雨 雨 降れ降れ お母さんが
蛇の目で お迎え 嬉しいな
ピチ ピチ チャプ チャプ
ラン ラン ラン ♪
雨の日も健やかな一日がおくれますように
お髭の手入れを手伝いながら歌います。
ある雨の日、窓の外をごらんになり、タシナリ神父様が
「アレ アレ コレ コレ」おっしゃいました。
私は思わず笑ってしまいました。
「神父様、 雨 雨 降れ 降れですよ」というと笑っておられました。
とても楽しい雨の日でした。
身だしなみを整えるとシモンチェリ神父様が
食堂へお連れしてくださいます。
お二人が窓の外の景色を楽しまれている姿が温かく心に残ります。
穏やかな朝を一緒に過ごせたことを心より感謝いたします。
タシナリ神父様の想い出
東木 忠彦神父様
タシナリ神父様の思い出はと聞かれるならば、六十年ほどの思い出のなかで、強烈に思い浮かぶのは、タシナリ神父のボナノッテです。
私があこがれの、宮崎の志願院に入った頃のことです。「今日は、タシナリ神父様が来られるぞ」という声で、習い始めたばかりの「ジェニス」という楽器を抱えて、宮崎の駅に行き、ウンパウンパと「腹へったマーチ」を吹いて、お迎えした日のこと。木造のガッチリした校舎の二階の一番手前のはしっこにあった、お聖堂に上がって、一番前のバンコに座り(チビだったので)、緊張して見上げたお顔がすごく優しくて、独特の言葉遣いでおっしゃいました。
「わずどもは、しーさいに、ならねばならないんです。わずどもは、しーさいに、ならねばならないんです。わずどもは、しーさいに、ならねばならないんです。おやすみなさい」
おかげさまで、ティロチナンテ(実習中の神学生)になって、中津のドン・ボスコ学園で、先生と監督先生をしていたときのこと、中津のドン・ボスコ学園から、宇佐神宮までの、結構長い道をまっくろのクレジメン(司祭服)に身を固めたタシナリ神父様の左側に並んで歩いてついて行くと、私の生徒たちが十八人ほど、二列になって楽しくついて来る。タシナリ神父様が、いろいろな楽しい話を愉快そうに笑いながら話してくださる。
「宇佐神宮ってのは、知っているかい。昔々は、キリスト教の教会だったんだよ。三位一体の神殿でね。「たーすけたまえ、ウシャマシャ、ウシャマシャ」ってお祈りしていたんだよ。「イエス・メシア」が、シルクロードで伝わってくるときに、途中のシリアで、「ウシャマシャ」って言葉がなまって、宇佐(うさ)とか、京都の「うずまさ寺」(太秦寺)っている発音になったんだよ。伊勢神宮はもっと発音が似ていて、イエスがイセに変わっただけなんだよ」っていうような具合に、なんだかほんとうのようなウソのような話に、すっかり引き込まれて、中津から宇佐神社までの道があっというまに着いてしまうのです。
タシナリ神父様がまっ黒のクレジメンで先頭を歩き、私たちは、「屋根のない教会」を一日楽しんでいました。
第Ⅴ部 宣教師の一人として
ドン・タシナリの思い出
ミカエル・モスカ神父
宣教師の誰であっても、最初の心配と考えは自分に与えられた宣教地についての情報です。言葉よりも国民、その歴史、習慣、人びと、生き方、毎日の生活はいちばん先に知りたいこと、習いたいことです。これを知り、習うために、身近なところですでにその経験のある者を探しています。ですから自分よりも先にこの場所に来た者に会いたい、聞きたい、彼から習いたいという望みはいちばん大事なものです。
日本に来て間もないころ、良い機会は一連の黙想会でした。遠い宮崎から会員たちが東京の修道院までやって来て、宣教地の話をしてくれるのを楽しみにしていました。ただ、若い会員たちは経験が浅いので、いちばん待たされる。タシナリ神父様は叙階されたばかりということで、宮崎小神学校で留守番で顔を見せなかった。会ったことはなかったけれど、この人は噂で知られていて、若者の教育の研究に携わっているということでした。まだ若者であっても、チマッティ神父様に励まされて、教会史『ペトロの船』を出版しました。宮崎から来た志願者はタシナリ神父様についてもっと詳しくいろいろと語ってくれました。
とうとう修練者が幾人かそろってから、彼らのために修練長としてタシナリ神父様がチマッティ神父様から送られました。これをもって東京の修道院は修練者、哲学生、神学生の三つのグループから成立することになり、共同生活がずいぶん変わりました。今までラテン語の典礼以外に催しやお話がイタリア語で行われていましたが、少しずつ日本語に変わっていきました。その心はタシナリ神父様でした。お祝いにあたって、バザリ作の演劇、日本語の『マルコ漁師』、『エリコの盲人』、『チカトラ』、また有名な日本人の英雄の演劇をしました。なお、タシナリ神父様はキリスタン殉教者の研究者でした。これはみんな良く知っています。
時代の移り変わりによって、日本人の若い会員は戦争に行ってしまい、修道院はまた宣教師ばかりになりました。タシナリ神父様はその院長に残されました。戦争の最後の月日は厳しかった。疎開のための場所探しと、野尻湖に滞在、さびしいときでした。タシナリ神父様がこの十字架を忍耐と奮発をもって受け入れていました。厳しいところもありましたが、夢のように過ぎ去りました。終戦後、新しい世界が自由と豊かな宣教のあけぼのになりました。すべては初めから。タシナリ神父様によって創立されたサレジオ学園のことは良く知られているとおりです。
編集後記
大分司教が司式された通夜もその次の日の葬儀ミサも、別府カトリック教会は特別の椅子が準備されるほど会衆で埋まった。
お別れのことばは静かに目と口を閉じてひたすら眠っておられるようなお棺の中の顔に語りかけるような調子であった。
少し、うつむき加減の師に向かって、シモンチェリ神父が問いかけた。「どうしていつもの顔をしないの」
その時、単発的なお付き合いだったわたしに、師が顔を真っ赤にして、口をほころばせながら語ってくれた思い出のいくつか頭をよぎった。
チマッティ師と総会議に参加して、次期総会長に選ばれそうになったとき、二人が相談して老いぼれで弱々しい風体を作って選挙に臨んだ日のことを表情豊かに話しくれたことを。今、始まっているチマッティ師のために公にしたくないのだとも。でも、調査が進んだころ、この話は記事になっていた。
その日、師は言ってしまったと後悔されたのか、安心されたのか、静に黙考されていた。
あの表情はこの世の旅を終えときの面持ちと同じで、「もっと話したい。いやこれで充分だ」とご自分に言い聞かせておられるようにも思えた。
今回、多くの方の思い出を、急に、まとめるにあたって、師の語り伝えたかったことが、ちらほらうかがえた。とくに、戦争という苦しい時期を黙々と乗り越え、戦争の痛手を受けてたれた師の勇気に頭が下がる思いでいっぱいである。
震災、原発事故によって復興、復旧という問題を突きつけられている私たちに、師の生きられた日々は、何かを訴えておられるように思えるのです。「ファイトとねばり」と。
この急な要請に応えて原稿の修正をされたり、小坂師の奮発と、かつて、「venite et videte」の作成に携わった有志の方々の協力によって短期間で、ここに不完全ながらも皆様にお届けすることができました。感謝のみです。
岡 道信 神父
VENITE ET VIDETE 刊行の趣旨
第二ヴァチカン公会議の精神に基づいて改訂された「会憲」が公布されてから、すでに十八年になろうとする。その頃から生まれた若者たちが、「神の子羊だ」と指さす方向に向かって進み行く時代になっている。そこでわれわれも聖性への「道すがら」、彼らに指し示してあげなければならない「サレジオ日本管区の霊性」を、まず自分がもっとしっかり自分のものにする努力が必要である。「Venite et Videte」誌は、そういう意味で私たちのまわりに先人が示してくれた、あるいは示してくれていることがらに目をとめてもらいたいとの願いである。「来てご覧なさい、分かりなさい」と主は言われる。今回は、今年百歳直前に逝去されたタシナリ神父のために寄せられた追悼文を収録して、これに応えたい。そして、主と共に泊まることが出来よう。
二○一二年四月二十一日 小坂正一郎 神父
VENITE ET VIDETE 第八巻
発行 二〇一二年四月二一日
編集責任 小坂正一郎
とある小春日和の一日、小さなラジカセを持ってサレジオハウスにドン・タシナリを訪ねた。それとなくいろんな話を聞いてみたいと思ったからだ。周知のように、ドン・タシナリの日本語としての語彙はそれほどひろいとは言えないだろう。でも、なぜかその話し方には説得力がある。ドン・タシナリと語り合っていると知らず知らずの内にドン・チマッティの面影が濃厚になってくる。ドン・チマッティと起居を共にし、労苦を分かち合って実に三十年だという。おまけに管区長職もドン・チマッティからドン・タシナリが受けついだのだから。ともかくドン・タシナリに聞いてみた。
「あなたから見て、ドン・チマッティは一言でいうとどんな人でした?」ドン・タシナリは少しもためらわず、すぐ答えられた。「かわった人でしたね」と。「かわった人?」正直言って「アレッ」という感じもないわけではないが、ちっと考えてみると、ある意味で聖人?とかいう方々は「かわっている」のかも知れない。つまり「非凡」なのだろう。
「ドン・チマッティのウイークポイント、周囲の人々、特に会員たちからとやかく言われた点、批判された点がありましたか」と聞くと、この間に対してもすぐさま次の三つの点を上げた。①金銭感覚の欠如 ②周囲に対してやさしすぎる点 ③個性の強い会員たちへの指導力、統率力のもの足りなさ。
ドン・チマッティは、そんなある日、福岡におられたブルトン司教をたずねたことがあった。ほかでもない。お金のやりくり、財政手腕がすぐれていることで有名だった司教にその方面についての助言を求めるためであった。ニコニコしながらあたたかくドン・チマッティを迎えた司教は、先ず最初にドン・チマッティに言った。「始めに神様のやり方を聞かせてください」と。ドン・チマッティはトツトツと例の調子で正直に説明し始めた。「私の手許には、いつもお金はありません。借金やら支払いの必要やらが山ほどありますので、お金が入れば、それこそ左から右へとすぐ出て行ってしまいます。ですから、手許にはいつもお金は残りません。」司教は興味深そうに、さらにドン・チマッティにたずねるのでした。「でもそれじゃ、お困りになりませんか」と。ドン・チマッティは無邪気そのもの、でも、まじめに確信をもって言うのでした。「司教様、それまで導き、助けてくれている摂理がそれからあとも面倒を見てくれる義務があると思います。」司教は満面に笑みをたたえて、ポンと軽くドン・チマッティの肩をたたきながら、こう答えた。「そうですか。敬愛するドン・チマッティ。どうぞ今まで通りお続けください」と。これが最高の「助言」だったとか。
ドン・チマッティが教区長を辞めてすべてを後任者にバトンタッチした時も、ドン・タシナリが管区長職をドン・チマッティから引きついだ時も、銀行の通帳、その他には文字通り一銭の借金もなかったそうです。
「私は、一生懸命あたたかい家庭的精神を人々の中に、特に会員たちの間に植えつけたかった。でも、力不足でうまくいかなかった。」と帰天する何日か前に病床で洩らしたそうだ。でも、われわれはよく知っている。ドン・チマッティが切望した家族的精神はものの見事に、その時も、そして今日でも、サレジオ会の特長とも言ってよいほど会員の間に浸透し、開花しているのではないか。
ドン・タシナリの語るドン・チマッティのエピソードは、それこそあとからあとからとめどなく続く。私なりにいくつかをピックアップしてみたい。
多分、ヴィジタだったと思うが、ドン・チマッティが中津支部ドン・ボスコへ行かれた時のこと。宮崎からはSLの高千穂号しかなかった時代。とてつもなく朝早い時間に着いてしまった。ご存知の方も多いことだろうが、聖堂とメインの建物の間に蒼々とした芝生の中庭がある。まだ休んでいる会員や生徒たちを起こしては迷惑をかけるとの配慮からドン・チマッティはスータンのまま朝露のおりている芝生に、待ってきた風呂敷包みを枕にゴロリ。二時間半ほど仮眠しているところを起きてきた会員に見つけられたそうだ。あとから聞くところよると「芝生の上のゴロリ」は二度や三度ではなかったとか…。カメラに収めておきたかった気がする。
しばらく経ってから、ドン・チマッティのあとをついだタシナリ管区長がヴィジタに出かけることになった。早朝暗いうちに宮崎支部の玄関口をヌキ足サシ足で音を立てないように出かけようとしたドン・タシナリは、真っ暗な玄関先にロザリオを手にしたドン・チマッティが立っているのに気がついた。ドン・チマッティは小声で「キップ」と言ったドン・タシナリに手渡した。汽車に乗ろうとしてみると、「一等車(グリーン車)」のキップだったという。自分にきびしく、他人に寛大。言うにやさしく、行いがたいことではなかろうか。
ドン・タシナリが十四年ぶりでイタリアに帰国した時、本部トリノ・ヴァルドッコで次期管区長就任の内示を受けたそうである。自分には荷が重いと思ったのであろう。食事を終えて、聖体訪問へと中庭を横切っていく長上たちの何人かに、ドン・タシナリは声をかけてみた。ドン・ジジョッティをはじめ、どの目上も皆、まるで申し合わせたように口を揃えて「大丈夫、大丈夫、長上の言うようにすればよろしい。」と言うだけだった。ドン・タシナリは「ああ、もう長上たちはグルになっている」と悟った。ちょうどその頃、トリノでは本部の最高の長上のメンバーのひとりに日本からドン・チマッティを招聘しようという話がかなり進んでいた。この招きをすでに受けていた当のドン・チマッティは周囲の人々には事あるごとに「どっちでもかまわない」といかにもドン・チマッティらしい言い方をしていた。このような状況をふまえて、ドン・タシナリはドン・ジジョッティを訪れてこう言った。「ドン・チマッティを、ぜひ日本にください。彼なくして日本におけるサレジオ会の宣教はとうてい考えられません。父親のような慈愛を持ってドン・タシナリの願いに耳を傾けていたドン・ジジョッティは「私が、直接ドン・チマッティに手紙を書きます。」と約束してくれた。事実、約束通り長い長い手紙がトリノからドン・チマッティの手許に届いたのは、様々な事情で約束より相当おくれたとのこと。少々理解しにくいことだが、ドン・タシナリは、このドン・チマッティが日本の地に骨を埋め、文字通り日本の土になることを決断する「もと」になったこの長文の手紙については皆目見たことも聞いたこともないそうである。人知を越えた摂理のみ手の業とはいえ、「ドン・チマッティを日本に下さい、日本のサレジオ会の宝です。」ドン・タシナリのこの叫びも長上を動かし、摂理のみ手をゆすったように思える。
次の話も至極当然といえば当然だが、いろいろなプロセスをへて、とにかくドン・タシナリが新管区長に就任した。ドン・タシナリは、人間的に言って不安でもあったに違いないし、「なにかと相談に来ますのでよろしくご指導ください」とドン・チマッティにお願いしたそうである。事実、なんどかドン・チマッティの許に行って助言を求めたようだが、その都度、ドン・チマッティは次のひとことを繰り返すだけで助言らしい助言はなにひとつ言ってくれなかったという。「あなたは、ひとりで務めを果たせます。」その通り、管区長が新旧交代してからは、オベディエンツァの取り扱いをはじめとして、種々の面で全く違った手法がとられたとか。
あれだけ次から次へと様々な事業を発展し、計画し、実現していったドン・チマッティなのに会話の中では決して「io 私が」という第一人称単数を使ったためしがないという。「noi」みんなが、会員たちがよくやってくれる、頑張ってくれるという言い方が常だった。
かりにも、ドン・タシナリのインターヴェーに来たのだから彼自身についてもちょっと書き加えてみよう。
私的なことで恐縮だが、ドン・タシナリと私との出会いは、私が二十三歳のとき、つまり、まだ未信者の頃だった。田園調布教会の一日本人司祭といろいろ教理を勉強していたが、ナマイキだった私にはてこずったようで、受洗はまかりならんと言われてしまった。
ちょうどその頃、ボランティアで国分寺サレジオ学園を訪れた私は、初めてドン・タシナリと出会った。私の記憶では、当時ドン・タシナリの口ぐせは「いいでしょう」だった。
私が「受洗の希望」を話し出すとすぐさまドン・タシナリの「いいでしょう」の返事が返ってきた。そんなわけで、あっけなくそれから一ヵ月あとのクリスマスの夜、十人の仲間と共に受洗の恵みをいただいたわけである。
それから以後、ドン・タシナリとは家族ぐるみの親交が始まった。それがきっかけで逗子の私の実家には延べ七、八十人のサレジオ会員方がいろんな機会に来てくださった。
管区評議会をわざわざ逗子兄宅で開いてくださったこともあって、今だに感謝している。そんな折、会員に方々を実家の仏間にご案内したことがあるが、中に何人かの邦人でない会員の人が脱いだ靴を、日本式に外向きにそろえておいたり、仏間では聖堂と同じように静かにひざまづき、ゆっくりていねいに十字架のしるしをして祈ってくださった会員がいて、私の身内の者たちは深い感銘を受けたようだ。その一人がドン・タシナリだった。
ドン・タシナリが宮崎日向学院の校長だった頃、いろいろうるさく相談に行ったり、許可をもらいに行ったりしたが、いつも「いいでしょう」と言われるだけで、そのほかに言われたことを何も覚えていない。「いいでしょう。」これがいわゆる「Ottimismo sano 健全な楽観主義」なのか。私の場合、ドン・タシナリの「いいでしょう」で修練期に進み、「いいでしょう」で立願になり、いろいろあって「いいでしょう」で今日に至っている。
Br.川部 金四郎「Venite et Videte」一号より
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